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『板橋宿』は、中山道の初宿であるとともに、川越街道・北国街道・三国街道へも通じていました。『板橋宿』の範囲は、現在のJR埼京線から北、環状7号線まで、北区境から西、川越街道辺りまでである。板橋宿の中央を南北に幅4間(7.2m)の中山道が通っていた。この道両側に並ぶ町場が、中山道『板橋宿』の中心地であった。現在板橋2丁目の平尾交番の南側、当時の川越街道分岐点の南辺りが、板橋宿町場の始まりである。町場は、ここから観明寺門前辺りまでを平尾宿、石神井川に架かる板橋までを中宿、縁切榎辺りまでを上宿と3町に区画され、全長1,700m程であった。
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1. 近藤勇の墓
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2. 板橋駅
| ■明治18年(1885)3月に、東北線と東海道線をむすぶために、品川・渋谷・目白・赤羽とともに板橋駅が開業した。
■鉄道の発達は、人馬の宿継ぎ輸送と旅人の休泊を生業としてきた宿場に大きな打撃を与えた。
※右の写真は、現在の板橋駅の様子
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3. 平尾交番
■平尾交番は、別名「川越街道分岐点」とも呼ばれている。
■川越街道は、江戸と川越城下を結ぶ中山道の脇往環。その起源は江戸時代以前にさかのぼる。ここから中山道と分かれ、大山駅前の商店街を通り上板橋宿(現、弥生町)へ。
■板橋宿平尾の名をとどめる「平尾交番」が、分岐点に建つ。 |
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4. 東光寺
浄土宗。本尊阿弥陀如来
■加賀藩下屋敷の拡張で現在地に。本尊、阿弥陀如来。寛文2年(1662)の庚申塔、宇喜田秀家の供養碑、通称追分地蔵などの石像物が境内に残る。

▲東光寺
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5. 観明寺
【旧所跡の紹介看板あり】
■真言宗豊山派。室町時代の創建。本尊は正観音菩薩。入り口に寛文元年(1661)の庚申塔がある。境内の豊川出世稲荷は、加賀藩下屋敷にあったもの。明治時代の宿場の賑わいを回復しようと成田山のお不動様を勧請し、縁日を開く。門前の不動通りの名称はその名残り。

▲観明寺(正面)
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6. 胸突地蔵

▲胸突地蔵 |
■子易神社入り口にある胸突地蔵は、別名身代わり地蔵とも呼ばれ、元禄八年(1695)に造立されたもので、もとは神社裏手(現金井窪保育園)にあった。
■台座には「右上尾」「左河越」と刻まれており、道標にもなっていた。
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7. 宗仙寺
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▲宗仙寺
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8. 馬頭観音
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■池袋方面へ延びる高田道と川越街道の交差点。
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享保19年(1734)の馬頭観音。
今も大切に守られている。
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9. 王子新道
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王子新道石碑
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■明治21年(1888)に、東京府内最初の新設公道として、北区王子まで通じる王子新道が開通した。
■この道は、宿場制度の廃止や、鉄道の発達、板橋宿大火などで疲弊した宿場の人々が、当時の工場街王子へ通勤するために苦労して開いた府道。
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10. 遍照寺
真言宗。本尊不動明王。
江戸時代の馬つなぎ場に隣接 |
■現在は真言宗だが、江戸時代は天台宗の寺。境内の続きに宿場馬のつなぎ場があったといわれ、明治になっても馬市が開かれていた。
■庫裏の玄関にかけられている絵馬は、明治時代の遊郭・千代本が当寺の参詣記念に奉納したもの。 |

▲遍照寺 |

▲遍照寺 |
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11. 乗蓮寺跡

▲乗蓮寺跡 |
昭和46年(1971)移転
「江戸名所図会」の挿絵(表・挿絵)に門前の景観が描かれている。
■徳川家康より寺領10石を認められた朱印寺。
■鷹狩の際の、将軍の小休所、御膳所にもなった。
■浄土宗。明治期には、板橋警察や、板橋第1小学校の前身がおかれた。首都高速5号線の工事により赤塚へ移転。
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12. 板橋宿本陣跡

▲板橋宿本陣跡碑 |
■現在、スーパーマーケット。本陣とは、江戸時代の宿場で大名公家などの貴人が休泊した宿。
■門、玄関、上段の間を持ち、その家は苗字帯刀を許された。
■板橋宿では、飯田家が代々本陣役を務めた。参勤交代大名30家をはじめ、和宮や東山道軍が宿泊した。
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13. 文殊院
真言宗豊山派。本尊文殊菩薩
本陣飯田家の菩提寺。
■境内入り口の閻魔大王が乗蓮寺のそれと並び有名。墓地には、江戸時代の旅籠、大盛川の墓があり、家族の名とともに飯盛女の名が刻まれている。
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▲文殊院 |
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14. 板橋
■「板橋」の地名の由来となった橋で、中山道筋の石神井川にかけられた木製の橋。「板橋」が歴史に登場するのは、鎌倉時代の初め、源頼朝が陣を張った時。江戸時代には、中山道が敷かれ、「板橋」をはさんだ街道一帯を板橋宿とした。昭和7年(1932)、木製からコンクリート製に改修された。現在の橋は、石神井川の改修に伴って昭和47年(1972)に完成した。
(板橋の区名発祥地とされている。板橋という名称は平安時代末期には既に使われていたが、江戸時代には宿場名、更に明治22年に町名となり、昭和7年からは区名にもなって現在におよんでいる。
■宿場時代にはこの橋を中心に上宿、中宿、平尾宿があり、これら3宿を総称して板橋宿と呼んでおり、中山道百三十二里(約520キロ)の首駅であった。
仲宿には問屋場がおかれ、人足・馬各五十を常備して継立てを行なっていた。
■また、宿内には大名などが泊まる本陣・脇本陣や、一般庶民の旅籠、商人宿などが軒を並べ、休み茶屋やかご屋などもあった。旅籠には飯盛女と称した遊女もいて、街道を往来する旅人たちで賑わっていた。
■橋のたもとには高礼場があり、幕末には上宿内の坂の途中に大木戸が設けられた。なお、この先には中山道の名所として知られた「縁切榎」が大きくそびえていた。現在の榎は3代目であるが、今も縁切り・縁結びに信仰を集めている。
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▲板橋 |

▲板橋からの眺め |
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15. 縁切榎
もとは、道の反対がわにあった。榎と槻が繁っていたことから「エンがツキる」といわれ、悪縁を絶って良縁を得る民間信仰が生まれた。和宮降嫁の時は、榎がまわりを覆い、見えないようにして進行した。板橋宿の町並みはここで終わる。
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▲縁切榎 |
中山道板橋宿の薄気味悪い名所として旅人に知られていたのがこの縁切榎である。いつの頃からか、この木の下を嫁入り、婿入りの行列が通ると、必ず不縁になるという信仰が生まれ、徳川家に降嫁の五十宮(いそのみや)・楽宮(さざのみや)の行列はここを避けて通り、和宮の折には榎を菰で包み、その下を通って板橋本陣に入った。
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この伝説の起こりは、初代の榎が槻の木と並んで生えていたため「エンツキ」といわれ、所在地である岩ノ坂を「イヤナサカ」としゃれ、これを縁切りに通わせたとする説と、富士に入山した伊藤見禄がこの木の下で妻子と涙の別れをしたからとする説がある。
現代の榎は、3代目であるが、この木に祈ると男女の縁が切れるという信仰は続いている。
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16. 氷川神社
板橋宿の上宿と根村(上宿の元になった村。現、双葉町・大和町・富士見町周辺)の鎮守。中山道、練馬道(現、富士見街道)の分岐点にあった庚申塔を祀る。

▲氷川神社
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